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世界遺産潜伏キリシタン 特設ページ
ピタウ先生と巡る五島列島ルポ
第5回 
枝川葉子(ピタウ先生を語る会代表)

 ピタウ先生と長崎を結びつける大きな出来事は、1981年2月のヨハネ・パウロ二世の来日と広島・長崎訪問でした。ピタウ先生は、この間、来日中の教皇ヨハネ・パウロ二世に同行されていましたが、その後、ローマへ戻られた教皇からの要請でローマへ呼ばれ、23年間要職を歴任されて、2004年に再び日本へ帰って来られたのです。
 帰国後は、神奈川県の大船教会で司牧活動されていましたが、急に目が悪くなられ、ミサ典礼書も読みづらくなり、2005年、四谷の上智大学校内にあるSJハウスで生活されるようになりました。

来日した教皇ヨハネ・パウロ二世とピタウ先生(上智大学にて)
来日した教皇ヨハネ・パウロ二世とピタウ先生(上智大学にて)

晩年のピタウ先生 自らを語る

  五島での最初の夜、福江島のホテルで、参加者一人一人の自己紹介があり、その後ピタウ先生はご自分の目の病気と最近のご自身の生活について語られました。

「ローマで忙しく働いていた時、聖アロイジオの400年祭で北イタリアのマントバの教会で司式と説教をし、祝賀会でワインを上手く注げず、こぼしてしまいました。ローマで検査をしたら眼底出血でした。2004年に日本に戻ってから白内障の手術をしましたが、今は黄斑変性症でミサ典礼書や本が読めなくなりました。最近は、新しい召し出し使徒職として卒業生やその家族の病人のお見舞いに行っています。」

「最初に見舞ったのは今年の春、肺癌が急に悪化したという卒業生でした。その方の後輩からお祈りしてくださいという手紙をいただきました。すぐに見舞いに行くと伝え、翌日、横須賀の病院までやはり仲間の卒業生が車で連れて行ってくれました。病室に入ると、苦しそうな息遣いの中、『ピタウです。上智のキャンパスを覚えていますか』と声をかけるとはっきり『あーあー』と声を出して返事をしました。希望されたので洗礼を授けました。その後、呼吸が穏やかになってきたので、奥様を励まして病室を後にしましたが、15分後にそのまま静かに息を引き取られたと奥様から連絡がありました。」

 「その数日後ですが、別の卒業生から依頼があり、その義理の弟さんを見舞いました。彼はカトリックファミリーでしたが、教会から離れていたので、神父に対してどのような反応になるか家族は心配していましたが、病人の秘跡を授けに『ご聖体をもって来ました』と歩みよると、『はい、いただきます』とご聖体と秘跡を受けられました。その3日後、卒業生の話では、まるでサルデーニャ島での臨終シーンそのままで、ベッドのまわりをご家族と親族に見守られている中で、もう言葉を発することもできない様子でしたが、チューブだらけの手を合わせ、最後にはっきりと『ありがとう』と声を出されて静かに息をひきとられたそうです。」

「6月には、学生時代からその家族とも親しくしていた方がやはりガンで、鎌倉の病院へ見舞いました。彼は自分のことより残される家族やその友人達のことを気遣っていました。私が見舞いに行くと家族と友人たちに“神のみ節理”について話してくれと頼まれ1時間ほどお話ししました。彼の家族はカトリックファミリーでしたが、彼の祈りが通じたのか姪御さんがその後洗礼を受けられました。」

「ホスピスや山谷にある“きぼういえ”(ホームレスの看取りをしているNPO)にも数回訪ねて病人たちを見舞いスタッフを励ましました。
何か、人生最後の準備のお手伝いをさせていただく。これが最近の私の新しい召し出し、使徒職になっていて心から感謝しています。」

信者の数は少ないが、日本のカトリックの歴史は凄い

「五島列島の巡礼は、教会巡りではなく、私達の信仰のルーツを巡礼するのです。250年司祭不在の状況で、カトリックの教えが正しく守られたのは、家庭の教育があったからです。
また日本で働いている司祭のルーツにもう一度触れたい。日本のカトリック教会の信者数は少ないが、その歴史は凄いです。もう一度私たちのルーツを見つけるために来ました。
明日からの五島巡礼に豊かなお恵みがありますようにお祈りしましょう。」

日本二十六聖人記念碑前で(左がデ・ルカ・レンゾ神父)
日本二十六聖人記念碑前で(左がデ・ルカ・レンゾ神父)

 ヨハネ・パウロ二世が長崎を訪問された折は、雪が降りましたが、ピタウ先生との長崎と五島列島を巡った旅行中は……。
 偶然ですが、ピタウ先生との五島巡礼初日は、46年ぶりという皆既日食の日でした。ちょうど最初の堂崎教会に到着した時間で、部分日食でしたが俄かに曇った空を皆で見上げて見たのもとても印象的でした。
 長崎と五島列島を巡礼中は、とにかく天候にも恵まれていました。「長崎は今日も雨だった」と歌われるぐらいですし、まして台風が近づいていましたから雨具必携と覚悟しておりましたが、一度も雨具を使わずに済みました。何度か雨が降りましたが、幸いにもバスでの移動中だったのです。
 この旅行のあと、四谷のSJハウスに戻られてから、またその後2011年にロヨラハウスにお住まいが移られてからもピタウ先生と出かける時は、殆ど雨に当たらずに済みました。五島列島の巡礼あたりから仲間うちでは、「ピタウ・マジック!」と呼び合っていました。

ローマから何度も来日して、長崎の世界文化遺産登録をてこ入れ

 ピタウ先生が2005年に四谷のSJハウスに住まわれるようになって、2006年1月から毎月「ピタウが語る会」が開かれ、2013年春にロヨラハウスに移られても、敷地内のイエズス会修道院の集会室で第85回の2014年5月まで続いていました。そしてその年の12月26日に帰天された後、先生の教えを語り繋いでいこうと2015年2月から隔月に「ピタウ先生を語る会」を開催しています。

 今年6月2日の第18回「ピタウ先生を語る会」にゲストスピーカーにイエズス会管区長のデ・ルカ・レンゾ神父様をお招きしてお話ししていただきました。まず最初にピタウ先生とレンゾ神父様とのご縁などについてお話しがあり、その後、最もタイムリーな話題として世界文化遺産登録に関するお話しをしてくださいました。
 ピタウ先生が、2002年前後に長崎での世界文化遺産登録へ向けてのイベントに度々ローマからいらしたことがあり、世界文化遺産として長崎のキリシタン遺跡は世界にむけて広く知らしめる意味があることと強くアピールされ、特に、登録に向けては、まずは、「和解」があるべきとおっしゃったこと、そして、ピタウ先生がローマからいらしたことで、長崎側も本腰をいれて世界遺産登録に向けて動き出したので、ピタウ先生の貢献は大きいとお話しされました。

「ピタウ先生が語る会」に参加した井上ひさし氏と(2008年)
「ピタウ先生が語る会」に参加した井上ひさし氏と(2008年)

世界遺産登録が成ったいま、和解の言葉に魂を入れよう

 このお話をきいて、特に「和解」についての指摘は、初めてでしたので目を見開かされた思いでした。ピタウ先生の「和解」と言う言葉への思いは、殉教や迫害を受けた信徒達への深い尊敬と哀悼や慈悲、そして平和への祈りが込められていると感じました。
 記録を調べてみますと、2002年10月にローマから一度は枢機卿を伴われて長崎にいらしていますし、2004年に日本に戻られてからもたびたび横浜で「世界遺産への道 長崎教会群」の講演会でお話しをされています。
 2018年6月30日に世界文化遺産登録が正式に決定したことを、天国のピタウ先生も「本当に良かったねえ」と笑顔で喜んでいらっしゃるでしょう。

五島列島の巡礼から、無事に戻ったときのお元気なピタウ先生
五島列島の巡礼から、無事に戻ったときのお元気なピタウ先生

 この度は、2009年7月にピタウ先生と巡った五島列島巡礼の回想記を書かせていただいたお恵みにこころより感謝いたします。先生は2014年12月26日に帰天されましたが、この回想記を作成中は、先生の語られた言葉が先生の声で聞こえてくるようでした。ついこの間のことのように懐かしく先生を思い出し、先生の語られたお話しも改めて復習させていただきました。     

2018年8月15日 
聖母の被昇天、ザビエル鹿児島上陸、73年目の終戦記念日に平和をいのりつつ

ピタウ先生を語る会  枝川葉子

 

ピタウ先生と巡る五島列島ルポ
第4回 
枝川葉子(ピタウ先生を語る会代表)

 7月23日の午後は、まず頭ヶ島教会を訪ねました。山の中腹に建つこの教会は、頭ヶ島産の石材で建てられた総石造りです。鯛ノ浦の信徒たちが、幕末まで無人島だった頭ヶ島へ迫害を逃れて住み始め、その中心人物がドミンゴ松次郎でした。
 1867年に伝道士養成所を建て、1887年に最初の木造の教会、そして1919年に現在のロマネスク様式の教会が7年の年月をかけて建てられました。教会の敷地内では、ドミンゴ松次郎の像やキリシタン拷問五六石之塔、プレール師信徒同伴殉教の碑などが見学できます。

頭ヶ島教会
頭ヶ島教会

頭ヶ島教会
頭ヶ島教会聖堂


次に訪ねたのは、中ノ浦教会です。入り江の水際に建つかわいい教会で、静かな入り江の水面が鏡のように教会を写しています。聖マリアに捧げられたこの教会は、聖堂に真っ赤な椿のモチーフが描かれて、きっと椿もマリア様に捧げられているのでしょう。

中ノ浦教会
中ノ浦教会

中ノ浦教会
中ノ浦教会を海から臨む

中ノ浦教会
中ノ浦教会祭壇

 中ノ浦教会の次に桐教会を訪れました。丘の上に建つ赤い屋根と白壁の大きな教会が遠くからも眩しく見えました。今まで見てきた教会とはスケールが違います。若松の瀬戸の守り神のように建っています。

桐教会
桐教会

桐教会
桐教会

 この教会の礎は、外海から移住した信徒たちにより築かれました。1897年に最初の教会が建てられ、現在の聖堂は1958年に改築されたものです。こちらの聖堂でも一番前のベンチで静かに祈るピタウ先生の姿は印象的でした。教会の敷地内には、ガスパル与作親子らの顕彰碑が建てられています。

 五島列島の最後に訪問したのは、土井ノ浦教会です。位置的にはキリシタン洞窟からもっとも近くにあり、屋根が緑色の六角塔とモダンな印象の教会ですが、聖堂内は、伝統的な様式が美しく、五島列島巡礼の最後の教会です。鯛ノ浦教会でのピタウ先生のお話しを胸に祈り、感謝いたしました。

土井ノ浦教会
土井ノ浦教会

土井ノ浦教会
土井ノ浦教会祭壇

 五島列島最後の夜は、若松島の民宿に泊まり、翌朝、奈良尾港からジェットフォイルで長崎大波止港へ向かいました。その奈良尾港の待合室でのこと、ピタウ先生にお一人の神父様がご挨拶にいらっしゃいました。それは長崎教区の古巣馨神父様でした。お互い懐かしそうに握手して満面の笑顔です。この時は、古巣神父様と私達「ピタウ先生を語る会」メンバーが特別なご縁で繋がるとは全く予想もいたしませんでした。

古巣馨神父様と
古巣馨神父様と

  古巣神父様は、2015年の信徒発見150周年を記念して「劇団さばと座」の信徒発見の劇「そしてサンタ・マリアがいた」の脚本を書かれ監督されました。そのDVDを2016年秋に「ヨハネ二十三世」DVD上映会の為に長崎を訪れた折に、元浦上教会主任司祭の小島栄神父様からプレゼントされました。
 そのDVDを鑑賞し感動した仲間達で、是非海外に紹介したいと英語版DVDの製作を企画したのが、「カロル日本語字幕版DVD製作委員会」(ピタウ先生を語る会の活動グループ)のメンバーです。

  ピタウ先生が繋げてくださったご縁や導きは本当に計り知れません。しかもその時には気がつかないのです。ピタウ先生のお導きで、DVD「そしてサンタ・マリアがいた」英語版DVDの完成にむけて最終段階にはいり、力を合わせて頑張っているところです。

  古巣神父様とお別れして、私達は長崎へ戻りました。
 長崎に戻って、まず国宝の大浦天主堂へ向いました。日本二十六聖人に捧げられ、殉教の地、西坂の方角を向いて立っています。坂道を上り教会への階段を上ると、天主堂の正面の「日本之聖母像」に迎えられました。

大浦天主堂
大浦天主堂

大浦天主堂
大浦天主堂のマリア像

 この像は、信徒発見の奇跡を記念してフランスから送られたもので、「日本之聖母」という命名はプチジャン神父だそうです。まずは巡礼の無事と心豊かに学ばせていただいたお恵みに感謝し、信徒発見のサンタ・マリアにご挨拶いたしました。このサンタ・マリアこそ1864年長崎居留地に最初に建てられたフランス寺と呼ばれていた大浦天主堂での1865年の信徒発見の証人です。敷地内には、「信徒発見の記念碑」も立てられています。

大浦天主堂
信徒発見の記念碑

  1865年、奇跡の信徒発見のニュースは世界中を感動させ、地元でも記念行事が行われましたが、その後、浦上の四番崩れの悲劇が起こります。1549年フランシスコ・ザビエルの来日から始まるキリスト教布教、1612年の禁教、250年の潜伏、そして1865年の信徒発見とその後の迫害の歴史は、世界に類を見ないドラマですし、その後も1945年の原爆の被爆というこれも世界に類を見ない悲劇がありました。その困難な状況のなかで信仰を貫いて生きてきたキリシタンが、その後禁教令が解かれた後、自分たちの手で教会を建てようと力を合わせて築き上げた教会群を巡り、キリシタンの信仰、家族の絆、人への思いやり、命の大切さ、平和の尊さを考えてきました。

 現代に生きる私達は、全くの信教の自由が守られ、経済的にも環境的にも不自由の無い生活をする中で、少しでも長崎キリシタンの信仰に倣うことができるでしょうか。周りの方々へ心を通わせる努力をしているでしょうか。平和について自分と子供や孫たちに直接かかわる問題として真剣に考えているでしょうか。ピタウ先生のお話になった言葉を自分の生活の中の柱として、これからの信仰生活の糧にしたいと思いました。

  その後、二十六聖人記念館でレンゾ神父様に館内を案内していただきました。そして、西坂公園の向いにある聖フィリッポ西坂教会を訪ねました。今回の長崎最後の教会です。

聖フィリッポ西坂教会
聖フィリッポ西坂教会

西坂教会 聖堂
西坂教会 聖堂

 ピタウ先生が今回の旅の締めくくりにお話しされました。

「この西坂の教会は、メキシコの信者達からの援助で建てられました。二十六聖人の一人、メキシコ人の聖フィリッポへのメキシコの信者たちの尊敬と信仰の結晶です。
 今日、大浦天主堂、二十六聖人記念館と西坂の教会を巡ってきましたが、「信者」という意味は何でしょうか。「証し人」です。神の愛をまわりのみんなに知らせる、証しする。私達は、その使命がある神の子です。
 私達は、長崎のキリシタンが禁教を解かれ再出発した教会群を巡ってきましたが、単なる教会巡りではありません。私達の信仰のルーツを巡礼してきました。250年の間、日本の信徒達は一人も司祭がいない状況で、自分達の信仰、カトリック暦を正しく守るために命がけで親から子へ、子から孫へと語り繋いできました。
 それが出来たのは、日本人の素質もあるでしょうが、最も大きな要素は、各家庭がしっかりしていて、家庭の教育があったからこそ受け継がれてこられたのです。家庭の大切さをこの3日間お話ししてきましたが、ご自宅に戻られてあらためて家族との愛、信頼関係を確めてください。そして現代的な問題、自殺の問題、拝金主義的な社会で生きるカトリック信者として、私達はしっかりした心構えが要ります。
 皆さま、お家に帰って素晴らしい家庭を育て続けてください。教会の土台は家庭です。
 そして良い家庭がなければ、良い信徒と良い司祭は生まれてきません。家庭ばかりではありません。仕事の場でも、どこで働いても、神様の国のために働くことができるのです。」

 この後、ピタウ先生は、私達全員に祝福を与えてくださいました。何か大きな勇気を与えられた気がいたしました。 

つづく

 

ピタウ先生と巡る五島列島ルポ
第3回 
枝川葉子(ピタウ先生を語る会代表)

 上五島での巡礼は、大曽教会からスタートしました。バスから降りて、階段を登って教会に着くや、「わぁー」、「あぁー」と感嘆の声が聞こえてきます。

大曽教会
大曽教会

  小さい素朴なレンガ造りの教会の前に、腕を大きく広げた白いキリスト像が迎えてくれました。十字架は腕を広げたキリストの象徴でもあり、その腕でいつでも私たちを受け入れて守ってくださっていると、以前、ピタウ先生が語られたことを思い出しました。
 聖堂内は、可憐な花のモチーフのステンドグラスを通して明るく光が降り注いでいます。
 最初にこの教会が完成した時の信徒たちの喜びは如何ばかりだったでしょうか。

大曽教会聖堂
大曽教会聖堂

絵本の世界のような上五島の教会

 次に訪れたのが、冷水教会です。バスを降りて、さらに長く急な階段を登りつめると、白い六角の塔ととんがり屋根がありました。まるで絵本の世界です。

冷水教会
冷水教会

 聖堂に入ると赤い椿が並んだステンドグラスが印象的です。この教会の信徒の殆どが外海から迫害を逃れて移住してきたそうです。お庭には、アーチの中に手を広げた白いマリア像が立っています。海からも見える白い教会とマリア像は、多くが漁民という信徒たちの心をしっかりと支えていることでしょう。

 3カ所目は、冷水教会の奈摩湾を挟んで対岸にある青砂ヶ浦教会です。
 ここの信徒達もやはり外海からの移住者の子孫だそうです。先祖のたどった厳しい歴史を背負い、特に信仰篤い地域で、この教会から多くの聖職者が育っているとバスガイドさんから聞きました。最初に紹介した、潜伏キリシタンの末裔の方です。彼女の迫害やキリシタンの生活についての話は、真に迫っていて心に訴えます。

青砂ヶ浦教会
青砂ヶ浦教会

  この教会はレンガ造りですが、内部は木造で、教会外面は足場が組まれ、聖堂正面部分も修理中の為、大部分がブルーシートで覆われていました。ピタウ先生はここでも全く変わらず一番前のベンチでひざまずいて祈ります。

島のセミに負けじと声をそろえて聖歌を歌う

  午前中の最後に訪れたのは、鯛ノ浦教会でした。聖家族に捧げられた教会で、正面に聖家族像が優しいほほえみで私達を迎えてくれました。奥に建つ旧聖堂はレンガ造りですが、その鐘楼の一部に、被爆レンガと言われる原爆で崩壊した浦上天主堂の被爆したレンガが使われています。

鯛ノ浦教会旧聖堂
鯛ノ浦教会旧聖堂

 昭和50年代になって建てられたモダンな聖堂で、ミサが捧げられました。こちらでは「お告げのマリア修道院」のシスターがオルガンで聖歌の伴奏を弾いて下さいましたので、外のうるさいほどの蝉の声に負けないで、声を揃えて聖歌を歌うことができました。

鯛ノ浦教会
鯛ノ浦教会

 ミサでのピタウ先生のお説教も力が入っていました。
「イエズス様は弟子たちに、祈るときはこのように祈りなさいと教えて下さいました。」

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。

(注 カトリック教会では「主の祈り」と言い、新約聖書のマタイ、ルカによる福音書にキリストが、祈るときはこのように祈りなさいと弟子たちに語ったと記されています。)

 ピタウ先生のお言葉が続きます。
「今日 私たちは、イエズス様が主の祈りを教えてくださった時の言葉を中心に、長崎の長い十字架の道、長崎の守った信仰を、長崎が正に自分たちの努力で建てた教会のことを考えながら、改めてじっくり味わうことにいたしましょう。
 イエズス様は、この長崎の経験してきた歴史を実際に見て学ぶなかで、そこに生きた信徒達が、どのような心を抱いて、どのような心の動きを感じて、そしてどのような決定をしたのかを感じる力を私達に導いてくださいます。ごミサの中で、主の祈りの言葉を一語一語かみしめて祈る中でより深く導いてくださるのです。
 ラテン語の主の祈りは、「パテール、パテール」(父よ、父よ)と言う言葉ではじまります。私たちは神様にたいして、子供のように、「お父さん」「父よ」と呼ぶのです。まず第一に生命を父である神から受けたのです。そしてすべての恵みの始まりは、全ての感謝の心は、生命が与えられたことです。本当に神様が私たちに与えた最高の恵みは生命です。そして私たちに命ばかりでなく、「心の生命」とも言うべき信仰を与えてくださいました。私たちは二つの意味で神様を御父、お父様と呼ぶことができるのです。」

 「私たちが祈る時に、本当に心を打ち明けて愛するお父様と話しているかどうか。子供は、何か危険を感じると、お父さん!とすぐに助けを求めます。その信頼。私たちは、毎日信頼できるお恵みを神様からいただいています。さらに大きな恵みとして洗礼の恵みを受け、私たちは心の生命、新しい生命をいただいたのです。また祈りの中には教育の要素も入っています。教育も神様からいただいたお恵みです。神様は私たちに、教育の精神を残してくださいました。
 日本では、旧約聖書、新約聖書と言いますが、欧米では第一契約、第二契約と言っています。キリストが生まれて、第一契約を完成させるために第二契約があった訳です。神様は、私たちに第一契約と第二契約によって生き方の模範を示して下さったのです。 
 私たちは神様への絶対的な信頼と、神様は私たちの父であり、全世界の人々のお父様ですから、すべての人はみな兄弟姉妹なのです。その気持ちを子供たちに日常の会話の中で伝えていくことが大切です。日々の生活の中で、私たちが「父よ」と呼ぶとき、そしてその父の子どもであるとき、全ての人間が兄弟であり姉妹であることを教えている訳です。私たちの毎日の祈りの中で全世界の人と繋がります。
 そしてそこから、今、苦しんでいる人たちのことに心向けられます。私の兄弟は、本当に苦しんでいる、飢えている、お互い殺し合っている、自分の国から逃げ出さざるを得ない、しかし住むところがない・・・。そのような兄弟のことを自分の兄弟のこととして感じているでしょうか。主の祈りを唱える時、そのような心で苦しんでいる人のことを兄弟姉妹として思いを至らせなければ祈る意味がありません。
 私たち一人一人が出来ることはほんの小さなことかもしれませんが、みんなで協力すれば困っている人、苦しんでいる人を助けることができるのです。何かできることがあるでしょう。「天におられる私たちの父よ」と主の祈りを唱える時に、このような気持ちを持ってお祈りしましょう。」

 日本語の「人間」と言う言葉は、「主の祈り」とその精神で一致しているのです。日本の伝統の中で、このようにお互いに助け合って、寄り添って歩んで、やっと「人間」になる。

「日本は戦後、憲法で戦争をしないと定めましたし、戦争で一人も人を殺してはいません。本当に日本の最高の誇りだと思います。しかし、そのことを神に感謝すると共に、昨日のミサで申し上げたこと、自殺者のこと―どうしてこんなに経済的にも発展し、文化も高く、平和を愛する国なのに、11年間毎年3万人以上の自殺者を出しているのか。どうしてでしょう。私には分かりません。
 これはまず第一に家庭の責任です。しかし周りの人々の責任もあるのです。どうして誰も知恵を出して苦しんでいる人達を助けないのか分かりません。どうして誰も、家族、学校の友だち、先生方、近所に住んでいる方々はどうして何も知らない、あるいは知りながら知らん顔をしているのか。主の祈りを唱える時、そのことも考えなければならない。皆、神様の子どもです。そして私たちの兄弟姉妹です。
その意味でも主の祈りの言葉の意味を考えましょう。平和のこと。私たちはミサの中で、何度も何度も平和を祈ります。平和―その平和とは、戦争の反対語の平和だけではありません。戦争しない平和も勿論あります。しかし日常生活の中で、お互いに助け合う、心を通わせる、そのような周りとの平和なつながりの関係―その平和的な繋がりとは、私たちの周りの一人一人を大切にすることなのです。」

「私は、1952年に日本に来て日本語学校ではじめて「人間」と言う言葉を習った時に、日本語の尊さに感激いたしました。「人間」と言う言葉は、人間一人を意味しますか? お互いに助け合って、人と人との間の関係を人間と言うのです。日本人は余り意識していないかもしれませんが。
 私たちは人間として、苦しんでいる人を見たら、手を差し伸べて助けなければなりません。一緒に寄り添って歩まなければなりません。「人間」と言う言葉は、「主の祈り」とその精神で一致しているのです。日本の伝統の中で、このようにお互いに助け合って、寄り添って歩んで、やっと「人間」になるのです。
 私たちの家庭、共同体、私たちの周りの社会で、誰かが苦しんでいるのです。その人に、人間として兄弟姉妹として手を差し伸べるのです。あなたのことを気にしていますよ、と目と笑顔を向けるのです。この優しい心をもって、毎日のミサの中で主の祈りを唱えましょう。今回の五島列島の教会巡りのお土産として皆さまに差し上げましょう。
 隣の人々、家庭、自分の周りの人々、世界中の人々はみな兄弟姉妹です。みな神の子です。私たちは周りの一人一人を大切にして、祈りで世界とつながることができます。」

ミサの後もピタウ先生は静かに祈ります
ミサの後もピタウ先生は静かに祈ります

 ミンミンミーンと蝉の元気な声が続いている中で、ピタウ先生の上智の精神にも通じるお話しが胸を打ちます。
 ミサの後、シスターが修道院で採れるミカンを絞ったジュースを振る舞ってくださいました。一口飲むや、ぱぁっと笑顔が広がっていきました。

つづく  

ピタウ先生と巡る五島列島ルポ
第2回 
枝川葉子(ピタウ先生を語る会代表)

キリシタン洞窟を訪ねて

 ピタウ先生とご一緒の五島列島巡礼ツアーが始まったその日のうちに、禁教令を逃れた信者たちの祈りの場を訪れて信心の奥深さを体感することになりました。
 午後も遅く、五輪港からボートでキリシタン洞窟に向いました。
 遠くから眺めてもキリシタン洞窟の岩場に大きな波飛沫が上がるのが見えます。はたして船を岩場に横付けして洞窟を見学できるかどうか。
 洞窟近くの岩場にうまく船を着けることはできたのですが、波に揺れて岩場に乗り移るのが一苦労です。

キリシタン洞窟入口
「キリシタン洞窟入口」

 最初に強者数名が岩場に飛び移り、腕をとりサポートして他のメンバーと三輪先生ご夫妻、ピタウ先生までも岩場へ移ることができました。
 しかし平らなところは全くない大きな岩、岩、岩です。三輪先生ご夫妻とピタウ先生はその場に留まってお休みいただき、いざ洞窟へ。洞窟へ入るまでは、まるで探検の気分です。
 ガイドさんの話によると、キリシタンたちは陸伝いでは行けない、このような島の突端の洞窟へ追い詰められ、潜んで生活していたということです。
 洞窟に入ると、ひんやりして外とは空気が違っています。
 大きな天井岩の見上げる位置に楕円形に削ったところがあり、その中に誰かが浮き彫りにされています。

キリシタン洞窟の上部に円形の頭部が彫られていたのはマリアさまか。
キリシタン洞窟の上部に円形の頭部が彫られていたのはマリアさまか。

 そしたら誰ともなく天使祝詞を唱え始めたのです。しかも古い天使祝詞でした。
「めでたし、聖寵みちみてるマリア、主は御身と共にまします。御身は女のうちにて祝せられ、ご胎内の御子イエズスも祝せられたもう。天主の御母聖マリア、罪人なる我らの為に、今も臨終のときも祈りたまえ。アーメン。」
 天使祝詞を唱えながら涙が溢れました。
 この洞窟で密かに生活を始めたキリシタン達でしたが、船で巡回して見張っていた役人に、朝餉の支度で岩の間から煙が立ち上るのを発見されて捕らわれたと聞きました。胸が痛む悲しい話しでした。

巡礼初日の教会

 巡礼初日のこの日は、堂崎教会、水の浦教会でのミサの後に、楠原教会へまいりました。
この教会は、信徒達の労働奉仕によって赤レンガを積み上げて建てられた教会です。レンガ一つ一つに込められた信徒たちの労苦の汗と喜びが感じられました。
 お昼は「遣唐使ふるさと館」にていただきました。

 そして午後は、まず井持浦教会です。

井持浦教会
「井持浦教会」

  この教会は日本で最初のルルドの泉として有名で、ルルド出現の聖母に捧げられています。入り江を見下ろす小高い丘の上に建てられていて、腕を広げた白いキリスト像が「いらっしゃい」と私達を迎えてくれました。五島の信徒たちが島のあちこちからゴツゴツした岩を持ち寄ってフランス西部のルルドの洞窟に似せて作りました。

「井持教会ルルド」
「井持教会ルルド」

 聖母像は現地から取り寄せて据えたもので、ルルドの水を求めて巡礼者が全国から来るそうです。私達もまずは喉を潤し、それぞれ水筒やペットボトルにルルドの水をいただいて持ち帰りました。
 私達を乗せたバスは山道を登って大瀬崎断崖園地に到着しました。
 天気予報では台風が近づいているそうですが、見渡すかぎり真っ青な空と海に突き出た大瀬崎灯台の美しい姿がくっきり見えます。大瀬崎に立つ灯台がまるで海を守るキリスト像にも見えました。海からの風が気持ちよく、お天気に恵まれていることにも感謝感激でした。ここからは福江港に向けてひたすら下っていきます。

 福江港からはチャーターしたモーターボートに乗り移りました。静かな港から五輪港を目指します。海上は波穏やかでトビウオになった気分で五輪港に到着しました。旧五輪教会は補修の為、聖堂に入ることができませんでしたが、入口から見学いたしました。

旧五輪教会
「旧五輪教会」

 外観は海辺の民家にしか見えなかったのですが、中は素朴な作りながら見事な聖堂で信徒たちが大切に大切に守ってきた祈りの神聖な場所であることがそのたたずまいから感じられます。

 五輪港からボートで向かったのが冒頭の、キリシタン洞窟でした。
 再び揺れているモーターボートに一人ずつ乗り移り、今度は上五島の郷の首港へ向かいます。
 上五島町に到着し、巡礼一日目が無事に終わりました。感謝。
 長崎・天草の潜伏キリシタン関連遺産が世界文化遺産に登録される9年前、ピタウ先生がお元気だったころの旅が昨日のように鮮やかに蘇ります。

 

ピタウ先生と巡る五島列島ルポ
第1回 
枝川葉子(ピタウ先生を語る会代表)

先人の苦しみ、殉教の上に、私達の信仰があることを考えよう

 2009年7月21日から3泊4日で五島列島の教会群を巡礼しました。世界文化遺産に登録される9年前、上智大学のピタウ先生のお誘いで実現した忘れられない旅でした。

 長崎に着いた初日は、浦上天主堂で長崎巡礼の機会に恵まれたことを感謝し、また旅の無事を祈りました。長崎大波止港からフェリーで、福江島へ。船内にもシスターや神学生らしいかたの姿があり、ピタウ先生を見ると皆さまがご挨拶に集まっていらっしゃいます。長崎が日本での第二のふる里とおっしゃるピタウ先生ですが、こんなに長崎の方に親しまれているのに感激しました。

大浦天主堂
「大浦天主堂に向かうピタウ先生の一行。ピタウ先生は右から2番目」

「私達は、生き方で周りのひとに信仰を伝えなければならない。愛の証し人となるのです」

 二日目は、まず福江島の堂崎天主堂からスタートしました。聖堂に入る前にピタウ先生のお話しがありました。「私たちの先輩達が信仰を守るためにどれだけ自分たちの命を捧げて生きていたか。その先輩達の苦しみ、殉教の上に、私達の信仰があることを考えましょう。私達は、生き方で周りのひとに信仰を伝えなければならない。愛の証し人となるのです。」
 この教会は長く厳しい弾圧を耐え抜いた五島キリシタン受難と勝利のシンボルだそうです。聖堂の中に入ると、ピタウ先生は一番前のベンチへ進み静かに祈られました。私達も五島キリシタンの殉教者と信者たちが力を合わせて材料を集めて立てたことを思いながら祈りました。

堂崎天主堂

マリア像
堂崎教会と、その横の緑の中にたたずむ白いマリア像

 2009年7月22日 堂崎天主堂の次に廻ったのは、水の浦教会で、こちらでごミサを捧げました。この教会は、日本二十六聖人に捧げられた教会で、1880年パリ外国宣教会ザルモン師によって創建され、その後1938年現在の聖堂が建設されました。

水の浦教会
「水の浦教会」

 ミサの前に、ピタウ先生は、ようやく信仰の自由が認められて信徒たちは喜びのうちに貧しい生活の中から労働奉仕、材木を売ったお金やレンガを寄付して建てられた歴史を話されました。
  大工の棟梁、鉄川与助についても、彼自身は亡くなるまで仏教徒で通したが、明治40年に手がけた木造の冷水教会が最初で、30ほどの教会建設に関わったとのこと。自然と共同体と日本の伝統を大切にし、それに調和した教会建築を心掛けたというその精神を学びました。

 「この地域の信徒たちが力を合わせて建てた教会で、キリシタンたちの思いとメッセージに心を傾けましょう。この教会と共同体の為にミサを捧げて、もう一度私たちは、日本での布教のことを考えましょう。
 私が日本に来た頃は、まだ第二バチカン公会議の前でしたから、キリスト教の話をするときに、あまり日本の文化や伝統を重んじてはいなかったのですが、第二バチカン公会議後からは、Inculturation、その国の文化を深く学び、それを尊重して、どのようにしてキリスト教との接点を見出すか、そのような研究、そして愛と努力を持って宣教するように教わりました。今日のミサで、その恵みにも感謝してお祈りいたしましょう。」

「日本に戻ってきて一番の苦しみは、毎年3万人以上の自殺者のいること。これは戦争と同じです」

 ピタウ先生は、1981年秋にヨハネ・パウロ二世の要請でローマで要職につかれ2004年に再び日本へ戻られました。そして一番ショックを受け悲しかったのは、この11年間に年間3万人以上の若者が自殺しているニュースでした。
「日本に戻ってきて一番の苦しみは、毎年3万人以上の自殺者のいることです。これは戦争と同じです。日本人ほど平和を愛する国民はいないはずです。子供と話す、信頼し合う、深い関係を築く、物を与えるのが愛ではありません。お母様の愛、お父様との信頼関係があれば決して自殺はしないはずです。今日はこの素晴らしい水の浦教会で、苦しんでいる子供達のため、その家族の為に祈りましょう。」 
 ピタウ先生は、水の浦教会で宣教師たちがいなくなった後、信仰を命がけで守ってきたキリシタンへの思いで、お話にも気持ちが入りたくさん語られました。

つづく

prof

ヨゼフ・ピタウ先生略歴:
1928年イタリア生まれ。カトリック教会大司教。52年来日。上智大学教授などを経て学長(1968-1981年)。1981年ヨハネ・パウロ二世の要請によりローマへ。法王庁立グレゴリアン大学学長、法王庁科学アカデミー事務総長などを歴任。2004年再来日、2014年12月26日イエズス会ロヨラハウスで帰天。

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国宝 大浦天主堂

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